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 2009年8月26日(月)午前10時過ぎ、わたしは突然の病に倒れた。脳出血。たまたま真近にいた友達が元看護師だったため、わたしの異変に気づきすぐに救急搬送手配してくれて大学病院に。倒れて46分後にICUでの早期処置により脳の出血が収まり、あやうく開頭手術を避け一命を取り留める事ができた。

 「ああ~、これでやっとゆっくり眠れるのね」と、ふっと思った。それまで仕事といくつかの頭を悩ませる問題で心身共に憔悴していたのは確かだったが、ここまでひどく心労していたとは自分でも驚きだったのだ。だから「もう、休んでもいいでしょ?」という意味合いだった。重篤な状態なのは変わらないけど、手術を免れた嬉しさからか投薬の影響からか、どっぷり眠る事20時間。目が覚めた時に真実を知った。

 身体の半分が麻痺するという「片麻痺」これが身体中27ヵ所にも及んでいた。自分の右腕、右手、右肩の所在が分からない。要するに感覚が無くなっていた。たとえば針で刺したりナイフで切っても感じないし痛みなどない状態。内臓や指の節々の一つ一つ、脳の右半分、もちろん言葉は全部やられてしまって失語症、文字通り言葉を失う状況。一番驚いたのは深夜トイレに連れていってもらった時、鏡に写る人物が誰だかわからなくなっていたこと。わたし自身の顔が半分麻痺によって崩れ表情が無くなっていた。これはもう心理的にもどん底の状態に陥るはずだった。しかし、意地っ張りなわたしは俄然やる気満々になったのだ(笑)「そうか・・・、それなら見事に回復してやるから、見てな!」と。

 脳の病気の後遺症はこれほどまで辛辣にやってくるんだと、無知だった自分を深く猛省した。ここまでで入院3日ほど経っていた。わたしは別人になった自分に、悲しくも辛くもなく一度も泣かなかったのよ。心の奥底にあったのは世間や病気に無知だった自分への怒りだ。「さて、どうやってこの苦境を乗り越えるか?」それだけが命題となり、翌日からすべてのお見舞いを断り、脳の高次機能回復リハビリと筋肉をつけるための筋トレを含むトレーニングを合計1日4時間、2週間のプログラムでスタートした。

 目標は「麻痺の一刻も早い改善と、3週間のスピード退院」だ。普通なら1か月ほど大学病院で処置しながらゆる~いリハビリをこなし、次はリハビリ専門の病院へ転院するんだそう。夫に「わたしは3週間で自力で歩いて自宅へ帰る」とだけ伝えた。夫や母、息子の困惑は激しかった。家でいきなり介護が始まってしまうのか?しかし、わたしは主治医と相談し、リハビリの内容も家での暮らしに則した、階段を上がる下がるなどの訓練や、自販機に小銭を入れる練習や、包丁を持つ練習、文字を書く訓練などさまざま30項目以上の機能回復プログラムを組み、どんどん回復路線へとシフトしていった。

 有難い事に会社からは半年の療養休暇を頂いた。復帰の条件は「言葉の回復、車の運転」の2点。わたしの客先へは社員10人が回ってくれた。予定通り復帰を果たした翌年3月末。定年までしっかりと働くようにとの嬉しい言葉も頂いた。会社へは、報恩感謝で現在もしっかりと働かせて頂いている。

 家での半年間は、夫が作った機能回復プログラム30項目を、毎日淡々とこなす日々。時折、恐ろしく心の深い部分で絶望感に苛まれる事も多々あった。これは脳の持つ仕組みを出血によって消してしまった病理的症状だ。この時に自殺をしてしまう人が多いと知っていたので、読書や美容に気を使ったり、夫と美味しい物を食べに行く、など好きな事をして気持ちをなだめていき、危うい状況を幾度となく回避した。また、夜中に脳の中心に雷が落ちたような症状もあり、これは脳の路であるシナプスがどんどん先へ活路を見出している状態で回復傾向だと主治医から説明を受け、嬉しさのあまりやっと涙が出てきたのだ。

 さて、タイトルの「約束の日」の意味だが、気の強いわたしは、退院の日に主治医に「先生、わたしはいったいどのくらいこの訓練を続けていつ治るのでしょうか?」と聞いたら「そうだね、はっきり言うけれど、だいたい50%の人が5年以内に再発する可能性がある」と。
続けて「再発防止のためにまず5年は今のリハビリを根気よく続けて」と、淡々と言われたが、
わたしはまだまだ、厳しいリハビリを頑張った末のおつりが欲しくて、「もっと何かモチベーションになる言葉を下さい!」とすがるような気持ちでお願いした。

 主治医は「○○さん、じゃあ、こう約束しましょう!10年再発しなかったら、貴方の勝ち!見事寛解!」こう言って頂いて、10年目の今日、「寛解(かんかい)」の朝を迎えた。
(寛解とは、全治とまでは言えないが、病状が治まっておだやかであること。

もう、乗り越えたからこの件はこれでおしまい。



 久ぶりのショートエッセイを。

 ~今しか書けないことを書く~

 「さあ、始めよう!」とさっき3時間前にこのブログを書き始めたんだ。辛くて、苦しくて、悲しかったというネガティブ・シュガーは使わずに、事実と、当時感じたことだけを一人称で文章にしてみようと思いたった。

 自分の中の弱さや醜さとまともに向き合うのは予想していた以上にしんどい。書きたい気持ちと書きたくない気持ちが半分づつある。でも始めてみるとその過程では、汚れた服に石鹸を着けて、洗濯板にゴシゴシとこすりつけている行為とよく似てて、洗い、ゆすぎ、絞り、青空の下に並べて干す作業と同じだ。

 この数年の間、わたしはこの青空の下のゴシゴシ洗いを何度も繰り返していた。ブログを書くと言う行為で。並んだ洗濯物はわたしの色々な腹の中のもの。それが並んで太陽の下で乾いていく。ほんわりと乾いた思い出は軽~くなっておひさまの匂いを蓄えながらわたしのタンスにきれいにしまわれていくんだよ。

 辛くて、苦しくて、悲しかったことも本気で書いてしまえば、楽になれる。カッコつけて頭の中でこしらえた文章や誰かの引用は一切使わず正々堂々と書こう!と、こんな気持ちだった。

 振りかえってみると、わたしはずいぶん長い間、つっぱって速足で歩き続けてきたんだなあ~と、しみじみ感じている。いつも誰かにこぶしの先で背中を押されているみたいな感じかな。でもね、もう50も半ばになってからはふっと力を抜いて立ち止まり、弱くても、醜くてもいいんだと気づいて、やっとすこしだけしなやかになることができてきたこの頃。

 だいぶ軽くはなったけど、今だ、言語障害という後遺症を持つ私にとって、
エッセイやブログを書くこととは声や会話を越えるもの。
そして人生を悦ぶためのものなのだ。